平和ボケ

日本人は平和ボケと言われる。平和は黙ってても自然にやってくる。戦争は忌み嫌っていればいい。そんな雰囲気を感じる。

 

平和は向こうからやってはこないし、戦争は拒否してもやってくるものなのである。平和とは、失って初めて気が付くものなのである。それは、病気のなってはじめて気づく健康の有難さに似ている。

 

健康である状態は、そのうらで繰り広げられる無数の戦いの結果なのである。黴菌の侵入や、異物の発生、傷や損傷、あらゆる異変に身体は対応している。健康とは、元気な体を作っるだけではない、正しい免疫の作業の結果でもあるのだ。そしてその免疫の範囲を超えた時、病気となり、身体は最終防衛態勢に入る。そしてそれに敗れた時、死に至るのである。

 

平和も同じように思う。活発な経済や交流で明るく正しい活動を進める一方、あらゆる争いや災害に対して、調整や復旧援助を繰り広げることで、世界の平和・平安が保たれている。国家間、民族間、さらには国内の対立、これらすべての争いは戦争の火種である。それに対して、無限の努力によって、調整や話し合いが行われなければならない。まさにこれこそ、平和実現のための防衛機能なのである。

 

平和とは、争いを嫌うことでは実現しない。平和が破られるとしたら、それは争いの調整が破綻したときである。いろいろな人間がいる限り争いがなくなることはない。もし恒久平和ということがあるとしたら、それは無限に続く争いの調整の結果なのである。この観点に立つことで、平和ボケの汚名を少しは返上できるかもしれない。