喧嘩と戦争

例えばこんな兄弟喧嘩があります。弟は、見つけたのは僕だと言い、兄は直したのは僕だと言います。喧嘩に負けた弟は、泣きながら親のところに行って、お兄ちゃんが僕のものを取ったと言います。親は両方の言い分を聞いて、あるいは兄を叱り、あるいは弟を慰め、あるいは別の方法を持って解決するでしょう。大切なのは、喧嘩それで終わると言うことです。おそらくその喧嘩は、兄弟にとってこれからの人間関係で役に立つことでしょう。

 

また例えば、土地を巡って争うこともあるでしょう。一方はもともとこれは俺の土地だと言い、他方はこれは自分が使ってきた土地だといえます。話し合いがつかなければ、裁判で法律に基づき判定が下されます。これも一種の喧嘩です。でも土地の件は、これで終わりです。正常な社会であれば、これによって生活を失うようなことがないようになるでしょう。もっと良い制度ができるかもしれません。

 

では、国と国の関係ではどうでしょうか。これも話し合いがつかなければ、喧嘩、つまり戦争となります。もしこれで勝ち負けがあった場合、負けた側は誰に泣きながらそれを訴えに行くのでしょうか。親もいません、共通した法律規範もありません。これが国家間の喧嘩の難しいところです。

 

でも、兄弟喧嘩や大人同士の争いのように、誰かが決着させ、勝った方も負けた方も両方を裁く事はありません。大抵の場合、勝った方の言い分が採用されます。そもそもこれでいいのか、と言う議論もあります。しかし、この戦争と言う喧嘩の終結で、人類は大きな禍根を残してしまいました。それは、第二次世界大戦後の無条件降伏による裁判です。ドイツも日本も、その主張は全く無視され、制裁されました。実は、この無条件降伏と言うのは、ルーズベルト大統領が言い出した全く新しい解決手段だったのです。

 

僕たちは戦後の教育で、これは当然のことと知らされてきましたが、世の中の喧嘩と照らし合わせてみれば、とてもおかしいと言うことがわかります。片方が一方を完全に叩きのめす、と言う事はあってはならないのです。例えば、兄がこれから先弟を支配し続ける、と言う事はあり得ません。勝った方も負けた方もそれぞれ理由があり、負けた方だけが悪いのではなく、勝った方にも策略はあったはずです。

 

僕たち人類はそろそろ、親や法律に変わる神の声に照らし合わせて、違いを判定する基準を持たなければならないと思います。難しい事は分かっていますが、その方向へ向かうべきです。そうでなければ、兄も弟も、それからの人生で有意義で互いを尊重し合う時間を実現できないからです。

 

今回のアメリカ大統領選挙で、僕たち人民は、本当のことを知らされないまま生きてきたことを知りました。本当のことを知る、本当のことを隠さない、これこそ神の声に近づくことだと知りました。