哲学と翻訳の壁

西洋哲学を知る時に、僕ら日本人はほとんどの場合、翻訳された哲学書を読む。僕はこのことが、日本において哲学が敬遠されている大きな原因と思う。例えばアリストテレスの「形而上学」というタイトルを見て、これは何のこっちゃとなってしまう。でも翻訳前のタイトルは「metaphysics」つまり、metaなphysicsということである。metaは超とか、その奥底にあるとか、はるか根源とかそんな意味。physicsとは物理と訳されるが、つまり目の前にある実体ということ。だから、metaphysicsというのは「現実の実体の奥にある真実」というようなことになる。こういう風にタイトルされていれば、はるかにとっつきやすくなる。

 

確かに、日本語にはなく、大和言葉に表せない、外国語の言葉を訳すのは難しい。しかし、形式ばって無理に造語するより、感覚的になじみやすい日本語にした方がよい。そうすればもっと日本人にも西洋哲学に興味を持つチャンスが増えると思う。

 

このタイトルの難解さは哲学書の内容についても同様である。日常用語や理工学書の内容なら翻訳でもまだ事足りる。文学でもとちょっと難しくなるが、まだ翻訳は有効であると思う。しかし、哲学になると翻訳は困難を極めるのではないか。そもそも、哲学者が自分の考えたことを、その国の言葉に「文字化」することすら難しいのだから。

 

僕は、哲学的な内容の文を読むとき、このことをいつも考える。だから、できる限り原書で読むことに努力をしている。どんな方法であれ、その哲学書を表した哲学者の言葉以前の考えた世界に近づけることが大切なのだ。

 

とはいっても、これは正直大変、ハードルが高すぎる。でも、このような見方をすれば、哲学に接するときの心の負担は格段に下がる。そもそも翻訳された哲学書に翻弄されることはないのだ。そしてそう理解することで、何よりも肝心な、自分自身で哲学することができるようになる、僕は今そう感じていて、気持ちは安らかである。