西欧哲学を学ぶ事がそんなに大事な事なのか?

哲学が大事であり、見直されるべきとは思う。しかし、その哲学と言ったら「西欧」哲学なのだ。そもそも西欧哲学は、古代ギリシアから発している。根本はそこにあるのだ。

 

西欧文化が、日本人の心の中では、まだ「外国」であることに気がつくべきである。日本の精神性には、100年やそこらでは塗り替えられないものなのだ。その根本を無視して「西欧」を学ぶことはできない。つまり、今のように無抵抗に「西欧」を受け容れていては、結局は理解できず、無駄骨になるのである。第一、「西欧」は、翻訳された文化であり、その翻訳すら本当に正しい保証はない。

 

僕は、西欧哲学を学ぼうとして、どうしても何を言っているのか分からず、結局は原書を読むしかないと思ったのである。そして、原書を読んでも分からず、とどのつまり「言葉から」理解しないといけないのだと知ったのです。

 

例えば、「思う」と「think」と同じではないのです。「思う」時の、頭を始めとした体の動きと、「think」する時のそれとは、違うものです。そして、このことが、翻訳された文書の理解の壁になっているのです。僕の理解では、思うのは「腹」で行われ、「think」は頭で行われているのです。

 

I think, therefore, I am. を「我思う、故に我あり」と訳したのと、「我考える、故に我あり」と訳した場合の違いは大きいと思うのです。僕は、この両者は、言葉の感覚がまったく違います。

 

このような異文化同士で、しかも翻訳を通して、その中身を「知る」事ができるのでしょうか。そもそも、理解し合う事は難しい事だと認識した上で、「理解」の出発をしなくてはなりません。でも、そう考えたら理解し合えない、となってしまうかも知れませんね。いや、残念ながら、現実には理解し合えないというのが本当ではないでしょうか。つまり、今までの翻訳文化では理解し合えない事を前提に「分かりあう」事が大切なのです。

 

そして、この「分かりあう」という点で最も難題なのが「哲学」なのです。

 

僕は今でも、哲学を学ぶ事は大切であると思っています。しかし、哲学を学ぶよりも、心の動きを知る事がもっと大事だと思うようになりました。