時の大切さ

僕にはいくつか大切なものがある。家族、友人、仕事、お金、どれも今の自分を支えている。もちろん、願いとか希望とかいう、心を支えるものも必要だ。しかし、これらとは別次元で大切と思うものがある。それは、時だ。

 

僕は、ただ流されるままに時間を過ごすことが苦痛に思うことがある。休息し、気を養うことも大切だが、ただただ時間を無駄に使うことが辛くなるのだ。なんとなくテレビを見ている時、空虚な会話が続く時、その”時”から逃れたくなるのだ。気が覚醒していない、心がベールに包まれている、そんな感覚が僕は辛いのだ。

 

少年老い易く学成り難し(しょうねんおいやすく がくなりがたし)

一寸の光陰軽んずべからず(いっすんのこういん かろんずべからず)

未だ覚め池塘春草の夢(いまださめず ちとうしゅんそうのゆめ)

階前の梧葉すでに秋声(かいぜんのごよう すでにしゅうせい)

 

朱熹の言とされる。若いうちはいっぱい時間があると思って勉強しないが、時は矢のように早い、池のほとりでみた若い時の夢や楽しさはから覚めずに、気が付いたら目の前は秋である。

 

僕は20代、詩吟を教わった。その時に習った唯一の句である。その時は、いやに暗い句だなあと思い、年寄臭くてあまり心は弾まなかった。その詩吟の師匠は下町で駄菓子屋さんをやっていた老人であった。駄菓子屋の2階の座敷で、もう80歳に近い師と対座して声を鳴らしていた。子供たちがたまに来る老夫婦の駄菓子屋。そのお爺さんが詩吟を教えている。今にして思えば驚くべき光景である。

 

実は、僕が小さいころ、そのお爺さんは、リヤカーを引いて坂道を登り、廃品回収をしていた。僕は、屑屋さんと呼び、まあ、正直な気持ち、そんなに敬意を払うことはなくその作業を見て、楽しんで遊んでいた。詩吟を教しえるお爺さんが、その屑屋さんだったことを知ったのはしばらくたってからだった。

 

屑屋、駄菓子屋、詩吟、昔の日本は、老人といえども覚醒していた。そして豊かだった。なんというか、ゆとりがあった。生きる哲学をも感じ取れた。

 

ああ、あの詩吟をやった時から、たったの40年しかたっていない。40年でこんなに変わってしまった。光陰矢のごとし、まさにこれである。すでに秋声とならずに、すこしでも時を大切に生きたいと思う。