文学の役目

僕の青少年時代は国語や文学には縁遠いものでした。詩を読んでも、文学作品を読んでも、それほど感動した覚えはありません。その良さがわからないのです。ただ、探偵推理小説や、怪談などは面白かったです。でも、今にして思えば、その時の自分は、それでしかたなかった、そして無理に文学少年を気取らずにいた事は正しかったと思います。

 

高村光太郎の「道程」を読んで、夏目漱石の「こころ」を読んで、少年たちはその意味するところを感じ取れるのでしょうか。一般的に言って、普通は無理だと思います。それなのに無理に「何か」を感じ取ろうとしても、それは嘘です。もし僕がそれを無理にやったとすれば、ただ学校の成績をよくするとか、友人たちに対する見栄とかに過ぎません。人生の経験もなく、人間関係や運命の悪戯も知らない少年にとって、そんなこともあるのかなあという感想が正直なところです。

 

でも、僕は、学校の国語の文学や詩歌の教育を否定してはいません。むしろそれを捨て去ってはいけないと思っています。僕が言いたいのは、無理やり「感想文」というのは、ちょっとやり方が乱暴だと言いたいのです。地理の勉強で、世界にはこんな所もある、というように、文学においては、人生の岐路にはこんな風景もあると教えればいいのです。そうすれば、地理が役立つように、文学が嫌いになることもなく、その後の人生の大きな役割を果たすと思います。

 

僕は今、かつて目にした文学や詩歌に触れて、先達の深い思いと言葉の美しさを感じています。枕草子を読んで、四季の感動や言葉の有り難さ、道程を読んで生きる意味や戦いを感じます。なにを感じるかは人によって違うから、どう感じてもいいのです。ただ、本当に心から感じることが大切なのです。そのことが、この歳になってやっとわかりました。

 

若い時、文学や詩歌に全く縁が無かったら、ゲームばかりでそのきっかけがなかったら、人生の岐路で、先達の知恵を知るきっかけを失ってしまいます。僕のように、文学不良でも、こうやって気がつくのです。文学の大切さを見失わず、ただ成績の目標とせず、将来の羅針盤の一つとなれるような国語教育を望みます。