街の気

僕は以前、人間は「気」によって生きていると書いた。実は街も「気」によって生きていると思う。昔ながらの街並、市場、広場に行くと、何かほっとした気持ちになる。それは、そういうところに「気」が集まっているからだと思う。逆に、気のない空間にいると、人間は息苦しくなり心の安住できなくなるのだ。

 

浜崎洋介が「反戦後論」の中で、少年の頃住んだ西神ニュータウンでの息苦しい思い出を語っている。どこにも逃げ場のない空間の中で、そこから逃れてはずれにある雑木林に逃れたと言うのだ。六甲山地の山を削り、大規模な造成を行い、そこに人口十一万二千万人の街を作った。デパート、ショッピングセンター、ホテル、地下鉄、道路、学校、病院などを配置し、夢の街であったはずだ。

 

僕は、浜崎が言う息苦しさは、気の無さであると思う。計画者が頭で考えた理想の街であっても、山を削ったそこには気はなかったのだ。人間は、気をいっぱい持って生まれてくる。しかし山を削った土地には気はないのである。人間はそういう気のないところにいると、自分の持っている気を吸い取られてしまうのかもしれない。

 

後年、浜崎は、歳月を重ねた団地の中で、初めて自分と団地と和解できたと書いている。

 

‥団地と団地の間には、無駄で曖昧な空間が広がっており、自然によって侵食されたその空間には所々隙間ができていた。‥

 

僕は、これこそ街に気が宿ったからだと思う。団地も長い歳月を経て、いろいろな人が住み、いろいろな出来事があり、人の気が街に染み込んでいったのである。

 

科学的にどんなに理想を掲げても、そこに気を宿すことはできない。気を宿すためには、人間と歳月が必要なのだ。科学的な計測はできないが、これは厳然たる事実だと思う。