もったいない

僕は、自分の居場所として、胆(はら)という言葉が日本語にあるという事に、あらためて驚きと感動を覚えました。日本語と言うのは、言葉が誕生した時の感覚を保持しているのです。その記憶を、日本人が忘れた中に留めているのです。

 

そして、時代が変わっても、その奥底の記憶から、新しい概念が作られると思うのです。僕が好きな「もったいない」もその一つではないかと思います。

 

勿体ぶっている、と言う時の「勿体」がその元の言葉です。勿体とは、「重々しさ」「威厳さ」などの意味です。ですから、「もったいない」といったら、本来は、重々しくない、軽々しくて不届きだ、と言う意味になります。それがさらに、「こんなにして頂いて『もったいない事でございます』」という風に、分不相応とか、恐縮する時に使う様になったのでしょう。そして、その気持ちは、「捨てたら『もったいない』」に繋がります。

 

ですから、「もったいない」には「そんな事をしたら申し訳ない」、「とてもありがたい」と言った思いがあるのです。人や物に対する、底知れない「感謝」があるのです。

 

ですから、「もったいない」は、単に大事にするとか、無駄はダメだとか言う、表面的な結果ではなく、その思いを発する心の根源がある事を知らなくてはなりません。

 

日常に使う言葉の中に、こんなにも深い意味があると知るだけでも、日本語のありがたさを思います。ちなみに、他の言語では、同じ感覚の言葉はないという事です。