中絶と僕の後悔

今年もお盆の季節になってきました。妻は毎年仏壇にお供え物や、キウリやナスで作った馬や牛を飾ります。そして、小さなオモチャも必ず添えるのです。それは中絶した最初の子供です。

 

どんな理由であれ、一度お腹に宿した子供は忘れられないのでしょう。正直いって、男である僕にはなかなか実感が出来ません。しかし、今まで軽く受け流してきたこの事が、今回は胸に突き刺さるものがありました。「命の選別」問題で、れいわ新撰組が揺れていることも影響しています。

 

どんな命であれ、この世に命を得たものはかけがえのないものなのです。命の大切さというものは、経済的合理性や政治的判断の前のものと言えます。

 

命の大切さという点で、僕は中絶した子供の命についての意識が薄かったことを告白します。もっと言えば、続いて生まれた子供の出産についても、僕はほどんど気に掛けることはありませんでした。男は仕事で戦っていればいいんだという意識でしたから。出産のときにも立ち会ってはいませんでした。

 

今にして思えば、神秘な生命の誕生の瞬間に自分がいなかったということが悔やまれるのです。命の一大事業を成し遂げている妻の手を握っていませんでした。

 

お盆で霊が戻ってくるということは、もしかしたらあり得ると思い始めています。これは相手の霊の問題ではなく、僕自身の問題です。僕自身の中に、命の根源である霊はあるのです。僕は、妻が100均で買ってきた発泡スチロールで作られたぼんぼりに、LEDの小さな明かりをつけました。妻の飾ったお供えに迷わず来れるように。