繕いの味わいは経済には無用か

長年着ていた普段着の襟首の部分が擦り切れて、糸がほつれ始めました。ずっと前から、何とか繕って綻びが広がらないようにと心していたのですが、もはや限界までになって、ようやく繕いに腰を上げたのです。

 

繕い始めると、もはや糸だけでは回復できない部分もあることに気づきました。とりあえず、糸の単線で修復できる部分のみ繕いました。より綻びが広がってしまったところは、後日、あて布か、ダーニングと呼ばれる、ヨーロッパで伝統的に行われる、ほつれ穴の補修法でやってみようかと考えています。それでも糸だけで繕った部分はちょっと"さま"になりました。

 

これ以外の大きなほつれ部分を修復したら、きっとやより味わい深い普段着となると思えば、とても楽しい気分になりました。

 

近頃、わざと生地を割いて、オシャレを装う風がありますが、僕には、それは取ってつけたようなシールみたいなものとしか見えません。味わい深さとは、長年使って、擦り切れて綻びて、それでも着たいという思いが必要なのです。そのためには、時間という素材が必要なのです。

 

この様な味わいも商売のネタとする商魂には敬服しますが、それで満足する人間が増えたと言うことなのでしょうか。でも、味わいとは、そのような商魂には無縁のものと思います。

 

思うに、僕のような人間だらけになったら、商売は上がったり、かも知れません。でも、あえて、僕はそうなって欲しいと願うのです。現世を、単に取り繕って楽しむ経済の根本精神を修復するために。