認識共同体

認識共同体とは、考え方や社会とのかかわり方が似ている人たちの集団というべきものである。考え方が似た人が集まると言う事でもあるが、自分が属している集団の考え方に染まっていくといってもいい。そして、一度ある認識共同体に属すると、そこから抜け出すことは困難でもある。

 

例えば、裕福な家庭に生まれ、周囲が高学歴の人が多く、また海外にも知り合いがあるとしよう。彼らは高い水準の教育的環境で育ち、それなりの学校に通い、海外に縁があれば留学し友人を作り、色々な見識を深めて社会をリードするポジションにつくことが可能である。友人たちは裕福でそれなりの良識を持ち、外国人もフレンドリーである。自国や世界の未来を共に語らい、これからはお互いに理解しあい生きていくことがこれからは大切だよねと思い、何か特別な階級に自分たちがいる感覚を共有するのである。お金には困らない、お金があることが前提のこの共同体では、お金がないという世界を理解することはできない。だから、お金がないとか、生活に困っているとかいうのは、世の中の流れに乗っていなかったからだとか、努力が足らなかったからなんだと思っている。

 

一方で、貧困生活で食料もままならない、あるいは戦闘の中での生活を強いられている人たちには、努力をすれば人生がよくなるなんて言う考えは、浮かぶすべはない。努力をする前提となる生活がないのである。場合によっては盗みや強盗をしてでも明日の生活を確保しなくてはならない状況があるのだ。

 

裕福な人にとっては、貧困の人達は野蛮であり、排除すべき人たちになってしまう。貧困になるのは能力がない、努力が足らないからと思っているから、最初から相手を理解しようとはしないのである。単に自分達の世界に入ってきては困ると思うのである。一方貧困の人達は、食べることに必死であるから、裕福な人が排除しようとすれば、理屈抜きに抵抗する。

 

こうなると、この二つの世界、認識共同体は決して理解しあうことはない。現在の世界はこの大きな二つの認識共同体のぶつかり合いであると僕は理解する。

 

さて、現在の日本も、一部の裕福な上層国民と、多数の将来の生活に見通しを持てない貧困層とに分かれてしまったと思う。そして、一部裕福な上層国民は政治や社会を管理し、自分たちの生活を持続させることを第一とするようになってきた。こうなると、お互いは、理解しあうと言う事はなく、敵対することが前提となってしまうのである。

もう少し細かく見ると、①現在の権益を守ろうとする、与・野党含めた上層国民、②上層国民のプロパガンダや意図にのせられた国民、③上層国民の意図に気づき、それに立ち向かおうとする国民、④努力してもだめだと、政治をあきらめた国民の4つになるのではないか。

 

この状況をどのように改善したらいいのだろうか。僕は、それには、2つの手段があると思う。一つは、③の目覚めた人たちの輪を大きくしていくこと。そしてもう一つは、①の上層国民がその認識共同体としての弊害を認め改めることである。

 

③の方向を目指すのは、山本太郎のやり方であろう。そして、①の弊害を改めることを目指しているのが、現在消費税減税を主張する一部の保守陣営であるとみている。僕の希望は、両者が成功し、目覚めた①と③のグループが対立するものではなく、お互いの価値を認め、より良い世界を作っていくことである。