命をかけるとは

命がけで人を助け出す、万に一その可能性があるなら危険を顧みず人を助けようとする。全く絶望的ならそういう行為はないと思いますが、一瞬の可能性を感じたら、その瞬間何かのスイッチが入るのでしょう。失敗すれば自分の命はないのです。

 

1982年のホテルニュージャパンの火災で新婚初日の新郎は、9階のわずか20㎝幅の窓枠を歩いて2m先にブル下がったシーツで作られたロープにたどり着く。希望をつかみたいという強い意志が死への恐怖を抑えたのです。このままでは死に至るという絶望感に、助かる可能性の希望が打ち勝ったのです。新婦を助けるという一念があったのかもしれません。

 

また、2001年新大久保駅で転落した人を助けようとして2人が犠牲になりました。転落した人を見てこのままではひかれて死んでしまう、何とかしようとしてのでしょう。そうすれば助けられるという光明を見たのでしょうか。この時の気持ちは何であったのでしょうか。

 

命をかけた行為というのは、古今沢山あります。戦国の武将は命をかけて殿に使えました。名誉にかけて切腹もしました。さらについ最近では、特攻隊として出撃した若者も命をかけていました。命をかけるといっても色々あるのですね。これらはとても簡単に答えられるテーマではありませんが、昔の事とか教育のせいとかいって捨てやるのではなく、人としてどんな気持ちを持ち得ていたのか僕は関心を持っています。

 

命をかけるとはどういうことか、どんな背景があるのか、命をかけるほどのこととは何なのか、引き続き考えていきます。

 

補足ですが、冒頭に書いた火災事故の救出のためのロープを作った人も、新大久保で犠牲になったひとりも、韓国の青年です。嫌韓ムードが広まる中、政治と国民を一緒にしてはいけないと思います。