戦後の自虐史観と総裁選の意義

前田日明著「日本人はもっと幸せになっていいはずだ」を読んだ。僕は今の日本人がこんなにも自信をなくしている事は、戦後生まれた自虐史観によるものだと思っていた。そしてその裏には、戦後日本に浸透した共産主義者GHQの日本解体戦略があったと思っていた。しかしその考え方は部分的には合っているけど、根本的には間違っていたことがわかった。

 

この本から、日本人は戦後、占領者から押し付けられて自虐史観を持ったのではなく、自らが自虐史観を持たざるを得なかったのだと理解した。今僕たちが持っている日本の政治や政治家に対する絶望感は、戦後の自虐史観を生み出した同じような土壌から成り立っている。

 

日本人が本来持っている美徳とは、慎ましく生き、人に迷惑をかけず、調和して生きることであったはずだ。人より数段上の生活をしたり、人の羨望を買うような生活は望んでいなかった。古事記にある通り、天皇は国を守るために、民を宝として見ていた。人民と書き、「おおみたから」と読んでいたのだ。

 

しかし、先の戦争中、その日本人が持っていた美徳を打ち壊すことが続いたのだ。赤紙で徴収された一般国民は、家族のため妻のため未来の子供のため、自らの命を投げ出すこともいとわなかった。だから強かった。しかし気がついてみれば、自分たちが虫けらのように扱われ、軍の上層部が本当の意味で責任をとってないことがわかった。なんだ言ってることとやってることが違うじゃないか、となってしまった。

 

そう言えば、僕の父は、フィリピン戦線にに学徒出陣したのだが、日本軍の酷さ語っていた。決して尊敬はしていなかった。もちろん立派な軍人もいた。硫黄島て最後まで戦った栗林中将、戦後命と義にかけて台湾を中国から守った根本中将。しかし、硫黄島にしても、沖縄にしても、特攻隊にしても、はたまた千島列島最北端占守島にしても、本当に戦い命を捧げたのは一般の日本国民であったのだ。それが日本人としての使命であると信じていたからだったのだ。日本軍隊の強さは、軍人ではなく、命を超えた誠や義を重んじる国民一人一人であったのだ。

 

この絶望感に乗って、左翼思想家たちが日本人に自虐史観を浸透させる事が出来たのだ。

 

思えば今のコロナ・パンデミックもそうだ。気がつけば国民が犠牲になり、政治家・官僚・マスコミが身を削って国民を助けてないことに気がついたとき、戦後日本と同じことが起きてしまう。自虐史観の基、それは、国の指導者が国民と同じように身を削って国家のために生きず、事なかれ主義で責任を取らす、自分の利益のために政治を利用してきたことなのだ。

 

だから、日本と日本国民が、自信と誇りを取り戻す本道は、日本国民が立ち上がり、元来の日本人の精神を学び直す事、自分を正すと同時に指導者のあるべき姿を思い出す事。そしてその結果として、国民のために生きる覚悟を決める指導者が現れる事だ。

 

今回の総裁選は、そのきっかけになる意義を持っていると感じる。なぜなら、国民が政治家達の誤魔化しに気付き始め、指導者達も、その国民の目を無視できず、覚悟を決めざるを得なくなってきたからだ。覚悟を決めた指導者が、正義を失った官僚・財界・司法そしてマスコミを叩き直す事。国民がその指導者を自覚を持って援護する事。総裁選が、この潮流を起こす事を願う。

 

 

 

 

本来、指導者を監視するのは、マスコミの役割であったが、今やその役割を果たさなくなったので、国民自身が

 

 

 

しかし今回の自民党総裁選で、この根本にメスを入れる歴史的なことが起きている。事なかれ主義、先延ばし主義ではもうダメなのだ。高市候補の出現によって、皇統にしても、財政にしても、軍事セキュリティーにしても、今までの曖昧さは許されなくなった。