信仰の心の力

コロナ感染による自粛で、今回連続6日間の自宅待機となりました。 おそらく、こんなに長く休んだのは久しぶりです。おかげさまで、今までやれなかった整理整頓をやることができました。折よく新しいPCを購入したのでそのセットアップもできました。ただこのような生活をもっと長く、1年も2年も続けるとなると大変だなあと感じました。極端に言うと24時間すべて自分の自由なのです。やりたいままに自由奔放に生活していたらダメになるということもよくわかります。

 

自由な時間を持った時、きちんと生活を律し、やるべきことを焦らずこなしていくことが求められます。わがままにしたい放題に生活をしていたら、まず健康が損なわれます。そして、精神の張りがなくなり、気力が失われてきます。やりすぎてもダメ、臥せっていてもダメなのです。

 

今回の連続の休みで僕は貴重な体験をしました。僕は休みの時間をやりたい放題に使い、体調を崩しました。自分の精神状態をコントロールできなくなっていたのです。でも僕は幸い去年から、毎朝行う自分なりの行を始めていました。それを続けていたことで生活の乱れも早く解消できたと思っています。

 

僕は毎朝、中村天風の「朝旦偈辞(甦りの誦句)」をやっています。中村天風は40歳代ぐらいから僕の心の支えでもありました。何かの折に天風の著書をよみ、自分を励ましてきました。それを、昨年の5月、令和が始まった時から、きちんとやるようにしていたのです。僕は仏様とか神様を信じているわけではありません。しかし、中村天風の言う宇宙霊というものは存在すると思っているのです。なぜなら、僕自身も大宇宙のひとかけらなのですから、そこにある魂というか霊というかそういうものが僕自身の中にあると感じているのです。

 

仕事や生活の面で破綻しかかったとき、落ち込む精神を支えてくれたのは、この大自然に宿る力だったと思っているのです。その折ごとに、宇宙の「霊」を感じていました。これは「信仰」という感覚に近いものです。理屈ではなく、感じ取るものなのです。その感覚を自覚することによって、僕は僕自身をしっかりさせることが出来ているといえます。

 

今回のコロナ騒ぎの中で、生活や慣習が変わってきています。そういう変化に対し、しっかりとした自分を保つのは、ここでいうところの「信仰心」であると思います。対象は何であってもいいい、信仰の精神を持ったか否かで、コロナ感染の終息した時、大きな違いが出来てしまう気がするのです。それは信仰という大げさなものでもなくていいのです。毎日必ずやることをこの機会に持つことが大事なのではないかと思います。