言葉の世界

僕は理系の人間です。理科や算数が好きでしたが、国語や作文は大の苦手でした。それは、理屈や理論ではっきりとした結果が得られない事が原因だったと思います。特に、文章から何と感じるかとか、小説の感想とか言うのはすごく悩みました。心にぽっと浮かんだことを素直に書けばよかったのに、自分の心境や文章から想像される状況を考えると、どれが本当なのか分からず筆が止まってしまうのです。

 

それが今、僕は、言葉の世界が大好きになりました。数日前に買った、大野晋著の角川国語辞典と類語国語辞典を机に置いています。いろいろな言葉を見ると、とても楽しいのです。

 

今日は、「心」「氣」意」がどう違うのかをあれこれと検索していました。まず、心と氣の違いは何でしょう。心遣い気遣いを調べると、意味はほぼ同じです。しかし、氣にするとはいうけど、心にするとはいわない。心を鬼にするとは言うけど、氣を鬼にするとは言わない。やはり、「氣は心」というごとく、氣と心はもともと違うのです。

 

これは、現時点の僕の結論ですが、「心」とは、大脳の思考のなかにあり、「氣」とは、大脳以前の脳にあるものではないか。思考を伴うのを心、思考以前のものを氣と考えると、何となくしっくりとしてくるのです。

 

では、「心」と「意」との違いは何でしょう。「心にかなう」と「意にかなう」はほぼ同じ意味です。しかし、「心を痛める」とはいうけど、「意を痛める」とは言わない。「心に刻む」や「心を一つにする」なども同じです。

 

これも、僕の現時点の結論ですが、意とは、心の一つの状態であって、何か特定の方向に向いていることを指しているのではないかと思う。それに対して、心とは概念上の対象物(Object)ではないか。そうかんがえると、「意に介さない」とか「意を汲む」なども理解できてくるのです。

 

そういえば、心と氣と意を合体させた、「心意氣」という言葉もありますね。角川国語辞典によれば、自分に誇りを持つ、しっかりとした強い気構えや態度という意味です。心の思考と、氣の思考以前が、意によって結びついて状態と理解すると、納得します。

 

これらは僕の独断の見解でまだまだ未熟な理解ですが、辞書を見るという事の楽しさを伝えたかったのです。言葉の世界は心の内観をするようでとても面白いです。