言葉とコンピュータの類似性と違い

言葉とコンピュータは類似していると思っていた。しかし、両者が決定的に違うとことがあることに気が付いた。コンピュータは絶対に人間に代わることは出来ない。

 

言葉とは人間同士が意思を伝達するための道具である。と同時に、言葉は概念を創り出している。自由とか正しさとかそういった概念は言葉で表現される。概念とは、その下に何層もの概念を含み、絡み合い、構築されている。例えば、平和という概念について言えば、戦争とか国家とか死とかそういった概念の上に構築されている。そして逆に、平和という概念が、戦争とか国家とか言った概念を更新している。

 

では概念の根源はなんであろうか。アメリカの哲学者アインランドは次のように言う。概念の構築は3段階あり、感覚の段階、知覚の段階、そして抽象の段階である。僕なりに解釈すると、感覚の段階とは、肉体的な感覚の段階と言ってのいいだろう。直接的な皮膚感覚だ。次の知覚の段階とは、皮膚感覚ではない、神経の中で反射的に構築された動作を操る機能の段階。脳の中の小脳の役割に相当する。そして、抽象の段階は、大脳皮質の機能である。

 

僕はこの考え方を支持している。つまり、すべての抽象、すなわち概念は、第一段階の皮膚感覚をその根源としている。日本語的に例を挙げると、耳が痛いとか目障りとか言った言葉は、肉体的な感覚から抽象的な概念を表現している。

 

しかし、平和とか国家といった概念になると、その根源がどの肉体的感性から構築されているのかをたどることは出来ない。僕たちは、肉体的感覚から離れた、もはや幻想と言ってもいいような世界、概念の世界で生きている。でも、僕たちは、社会の色々な情報、歴史上の色々な出来事から、「共通」の概念として、平和を考えることをしている。

 

一方コンピュータは、ゼロイチの世界からスタートして、ハードウエア・ソフトウエアを何層にも発展させて複雑な処理を可能にしてきている。そして、画面に文字を表示することですら、もはや、その裏でどのような機能が働いているのか皮膚感覚で知ることは出来ない。この点は言葉による概念の構築と類似している。しかし、時間をかけて分析していけば、その根源のゼロイチは存在し、理解することは出来る。

 

では、AIに平和という言葉を「理解」させようとしたらどのようにするのであろうか。それは世界中にある、平和という言葉をかき集めて、「学習」させるしかない。そしてその学習の根源は、情報、すなわちゼロイチの世界である。複数のAIが平和を理解したとした場合、それはどんなに時間がかかったとしても、その根源のゼロイチは存在する。つまり、コンピュータの動作はすべて理解可能なのである。

 

では人間の場合はどうであろうか。平和という概念は、個々の人間の肉体的皮膚感覚からスタートしたと考えた場合、複数の人間での理解の共有は出来ないことになる。もし理解し合うとしたら、宇宙の根源までさかのぼる必要がある。ここが、言葉とコンピュータの決定的な違いと僕は認識している。