自分自身の言葉とは

何か意見を言う時に、それが本当に自分自身の言葉なのか、という問いを僕は持っている。本当に「そう」思っていない自分がいたら、僕は言葉に出すことができない。

 

例えば、若い頃、恋の歌、とかを歌うことができなかった。恋というものを実感できていないのに、誰かの歌詞に従って、恋心を歌うことはできなかった。確かに、それほどまでの恋焦がれる恋愛がなかったといえば、そうかも知れないし、ちょっと悲しい。でも僕はそういう自分が好きであると、今言うことができる。

 

自分自身の言葉を持ったら、それは力を持つ。世の中に合わせるのではない、他人のご機嫌を取るのではない、流されない言葉、しっかりと自分に根差した言葉。それは真に心の奥深いところで自分の魂につながっているのではないか。だから大きな力を持つ。

 

人は各々、親や友人や周囲の人、そして書物や歴史上の出来事、偉人の名言などから自分の波長に合った言葉を集めている。でもそれは、まだ、人の言葉だ。しかし、それが自分自身の言葉になる瞬間があると思う。その時言葉は確固となる。

 

僕は神仏を信じてはいない。無宗教である。しかし、宇宙の摂理というか根源というか、そういうものがあって、人間はそういうものからの力によって生かされているのではないかと最近思うようになった。そこには無限の力がある。

 

その力の琴線に触れたとき、言葉も力を持ち、自分自身の言葉となる。そしてそれには、自分自身を内観して深めていくしかない。もしかして、これが、いわゆる修行というものなのか。畏れ多いことだが、こんな風に最近考えている。