大人は幸せを求める、子供は楽しさを求める

憲法第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 

このように幸福追求権は憲法13条に規定されているが、とても抽象的だ。そもそも幸福とは何かと問われたら、その回答は十人十色になってしまう。でもその曖昧さがゆえに、人権とかプライバシーとか色々な場面に「幸福」を掲げて、それを尊重する後ろ盾になっているとも言える。政策や政治にはこの様な曖昧さが必要なのかもしれない。

 

しかし、例えば商品として何かを売り出そうとしたとき、「幸福」というものは商品になりにくい。あまりに漠然としている。そもそも幸福は具体的に見えるものではない。幸せとは結果として感じるものであって、最初から存在するものではないのだから。でもなぜかそれは最初からあるものとして、各人が具体的にどうしたら幸せか考えなさいということなのだ。考えてみれば便利な概念である。幸せを求めて生きている、そういえばだれもが納得できる。

 

ふと、子供たちは幸せを求めているのか、と考えてみる。もちろん彼らはそのような概念を持ち合わせていない。彼らは単に面白いことに喜ぶだけだ。楽しいことがあれば、夢中になってのめり込む。子供が感じる楽しさとは抽象的な概念ではなく、具体的で肉体的に感じ取れるものだ。子供にとって楽しいおもちゃ、楽しい部屋、楽しい服、楽しくなる本はあっても、幸せな部屋や服や本はないのだから。子供たちは楽しさを求めると考えてみると、とても納得がいく。

 

大人は幸せを求める、子供は楽しさを求める。

 

よくよく観察してみると、幸せというものは、子供の時の楽しさの延長なのではないか。大人たちも子供にならって、幸せなんて複雑な概念を持ち出さずに、楽しさを求めて生きる、というのはどうであろうか。もっとわかりやすい社会になるような気がする。