繕う心

僕は、リックの中に糸と針を持っています。ボタンが取れたりほころびたりするとそれで繕います。先日も靴下の親指のところが破けてしまったので繕いました。その靴下は元気にその後も僕の足に役立っています。僕は何か新しいものを創り出すことも好きですが、こうやって繕って役立だせること、再起させることにとても喜びを感じます。

 

その昔小さい時、ばあや(僕は親しみと愛情をこめてこの言葉を使いますが)が、自分の部屋で足袋や下着を繕い、さらにぼろになると雑巾に縫いたてていたのをよく見ました。もったいないからと言いつつ、背を丸めて一心に針を進める姿には、深い愛を感じます。そして、その姿が思い出されると、今自分が繕っているもの、針、糸、そして手や指に何か愛おしいありがたみを感じるのです。歳のせいでしょうか?(笑い)

 

僕のリックも繕い続け補修し続けて使っています。痛む部分には薄い革で覆いを縫い付けて補強し、力のかかる部分は金属をあてがい、それに取り付けた厚い革で手で持つ部分を作っています。場合によってはすごく時間がかかり、買い換えたほうがよっぽど合理的かもしれません。しかしそれに代わる新しいものがなかなか見つからなかったり、補修して使う時の満足感が忘れられず、こうやって繕う場合が多いです。そしてそれを使う時何とも心が落ち着くのです。

 

使い捨ての文化に逆行するといわれそうですが、使い捨て文化こそ押し付けられた異文化といえると僕は固く思っています。その文化の中で心と物のつながりが薄れ、分断が進んできているように感じます。物への感謝、さらには周囲への感謝を育てる手段として、繕いの文化を思い出してもいいのではないでしょうか。