個人の覚醒とは、自分自身を知ること

個人の権利の主張を認め、機会を平等に与えると言うのは、社会主義者の主張である。彼らが言う平等と言うのは、個人個人がすべて共通であると言う前提に立っている。それが高じて女にも男と同じ権利と役割を与えよ、男も自分が望めば女のように振舞っていい、などと言うように、男と女の違いも取り払おうとするのである。しかし、これは明らかに、男または女の立場や権益を犯すものである。

 

これらの政策は、個人の権利と言うことをうたい文句にしているが、結局は個人の権利を剥奪しているものでしかないのである。つまり、個人は認めず、共通化した人間のみ存在するという考え方なのだ。個人は埋没し、自分自身を見失い、挙句の果てには精神を病んでしまい、薬に頼るということにさえなってしまうのだ。

 

僕はまず、他人との共通ではない自分自身を見つけ出すこと、これが大切であると思う。体の調子も能力も環境も違い、これらを共通の基盤で論じるのは無理と言うものである。したがってこれらの主張する人たちは、声の大きい人たちがその主張を先導するようになる。これが左翼の一般的な流れなのである。

 

人間を共通化し、同じ尺度でしか判定しないとしたら、それは地獄である。他者ではない自分自身を発見し、それを尊重すること、これこそ個人の覚醒である。そのためには、自分自身の傾向や心の動き、それに伴う身体の状態を観察し、その本質を見定めようとする心構えが必要なのである。失敗と試行錯誤の繰り返しが必要なのである。僕は、こういうやり方でやってきた。他の人に強要出来ることでないかもしれない。しかし、自分自身を知り、他人との違いを認める事は、どんな方法であれ必要と思う。そういう努力を怠ってきたことが、人類の乱れの原因と思う。