物に自分を合わせるのではなく、自分に物を合わせるへ

前回の「効率の経済から心を込める生活へ」の趣旨を別の切り口から書いてみたい。それは、人と物、どちらが大切かと言う事である。

 

そもそも人間は、ほかの動物とは違い、与えられた環境を自分に合わせて修正し適応してきた。狩猟生活では非力な人間が猛獣と戦い、沢山の人間を養うために農耕生活を開始するには、ただ与えられたものだけでは不可能であった。人間は道具を工夫し自然や環境を制御したのである。そして食料を確保したければ貯蔵し、水が欲しければ貯水池を作り、早く移動したければ馬を使い、環境を自分に合わせてきたのだ。百獣の王ライオンだって自然環境に自分を合わせざるを得なかったのにである。

 

人間はこのような生活(人生)を送るために、地上に生まれてきたともいえる。自然の中に自分たちの活路を見出し、自然と共に生き、自然を理解し、自分の考えを作り上げるために。これはほかの動物にはできない、人間だけに与えられた使命ともいえる。その基本は、与えられたものに自分を合わせるのではなく、いつも工夫し深く考え、自然をコントロールすることなのである。自分の生き方を創り上げていくことでもあるのだ。

 

しかし、現在、人間は自分たちの創り上げた「物」に自分を合わせてしまう様のなってきた。多くの人間は、与えられた物、与えられた政治、それらに自分たちを合わせて生きているのではないか。仕方ないと思っているのではないか。例えば住居であっても、与えられた物なのである。自分で創り出した物ではないのである。自分たち家族を与えられた住居に合わせ、家族の変更があったら住居を変えて生きている。自分の手で作り上げた物であれば、住居であっても修正していけるのだ。先祖たちはそうして生きてきた。確かに、現在の住環境は簡単に個人が造れる物ではない。しかし、このことは、身の回りの小さな道具をみてもわかる。ほとんどすべて「大量に生産された物」に合わせた生活を送っているのだ。先祖が自然に対峙した時の戦慄を覚えるような緊張感はもはやない。

 

人間は自然を自分に合わせてるように工夫してきた。今度は自分たちの作り出した物を自分に合わせるということが必要ではないか。