日本語の力

僕たちは特に意識をしないでしょうが、日本語には漢字・ひらがな・カタカナがあります。さらに、その漢字には、音と訓があって、それぞれに意味を持たせながら漢字だけの世界と日本語をつないでいます。先達の創り出したこの文化の道具を使うことによって、僕たち日本人は微妙な精神世界を面々と伝達してきたのです。僕は言葉というのは、脳の一部分が、他の部分からの伝達を保持するために作り出した道具と思います。ですから、僕たちの脳が本来伝えたいことは言葉では不十分なのです。

 

古来日本人はそのことを暗に理解していて、大和言葉を基に、音・訓・ひらがな・カタカナに役割を振り分け、言葉に表せない部分を伝え続けてきた、僕はそのように理解しています。その深い部分があるから、人も社会もそう簡単にはいかない、「和をもって貴しとなす」がその結論だったのではないでしょうか。

 

人の世界はとても微妙です。他に対する気遣いや自分の思いの伝え方は「言葉」だけではなかなか難しいのです。しかしそれをある程度成し遂げてきたのも、日本人のきめ細かな精神であったと思うのです。その証として、他国後に訳すことが難しい日本語がたくさんあるのです。

 

おつかれさまです。よろしくおねがいします。おせわになっています。いただきます。

 

このニュアンスを例えば英語で何というのでしょうか。世界の人は日本人は何を考えているかわからないとか、主張しないとかいいますが、日本人からすると、彼らが理解できない言葉で話しているのです。

 

「わびさび」にどのような美しさを感じるのか、日本庭園や茶室の美とは何なのか、これもなかなか伝えにくいです。さらに、一人称にこれほど多くの表現があるのは日本語だからでしょう。僕、私、我、自分、小生、手前、それぞれに微妙な違いを相手に伝える手段として使っています。敬語・謙譲語の存在も大きいと思います。

 

日本人は、人間同士が和解することの難しさを知っていたから、その微妙な心の伝達を工夫して文化社会を作ってきたと思うのです。そして、相互理解の困難に直面する現在の世界において、日本語が培ってきた知恵を活かすべき時が来たと感じるのです。