無言の大多数の代表

今年(2019年)の参議院選挙で、山本太郎のれいわ新選組が登場して、政治の区分が変わってきた。山本太郎は、従来の区分では、極左と見られている。しかし、現在、従来の保守層の一部も、彼を指示している。その判断基準はなんであろうか。

 

従来は、現状を変えない(保守・右派)か、変えていく(革新・左派)かで区分されてきた。彼はその対立軸では計れないのだ。従来の右派・左派は、最初は確かに保守・革新であった。しかし、時間の経過とともに、右派・保守は、大企業経営者や一部の利益を確保してきた人、一方左派・革新は、労働組合や一部の利権獲得者の声を代弁するだけの集団となってしまった。それぞれが利益を配分し、その身を守り、その他大勢の人達を見なくなってしまったのだ。

 

ここに、山本太郎が登場する意味がある。つまり、彼は、その見捨てられた大多数の人々を見るべき、と声を上げたのだ。現在の右派や左派に敵対するものなのだ。そしてそのことが今一番求められていることを、世の中に知らしめたのだ。

 

右か左か、保守か革新かではなく、特定の一部の利益代表か、大多数の組織をもたない人達の代表かという区分が、この日本では必要なのだ。

 

しかし、その大多数は、現在の日本では疲弊し、政治どころではない。思い余って自らを消滅(自殺)するか、お互いを傷つけ合い、引っ張り合ってしまう傾向にあるのだ。

 

それではだめだ、あなた方大多数が消滅させられてしまう、という警鐘を、山本太郎は発する。その叫びによって、いままで黙々として、利権組織を持たない大多数の人々の心の中に、眠っていた疑問が、むくっと覚まされたのだ。

 

僕はこう理解している。そして、それは、困難を極める作業であることも理解している。極端に言えば、人類の歴史的な社会変換のプロセスなのである。僕は今、そのことにどうかかわっていったらいいか、考えている。