母の春はあけぼの

母は昭和3年生まれで今年91歳です。昨年夏、血栓が詰まり左脚を失い、老人ホームでの生活となりました。あれよあれよという間の出来事でした。自宅にいるときはまだまだ元気でいるだろうと切羽つまった思いはなかったのですが、大きな手術による衰えとと精神的ダメージを見せつけられ、このまま落胆のまま衰えていってしまうのはなんともしのびない気持ちになりました。なんとか今一度元気になり、話せるようにしたいと切に思いました。母には乗り越えていく気力はあると信じていたのです。

 

体力も衰え、認知も少し進んできていますが、心の奥底では、自分は不自由な身になってしまったけれどしっかりと生きたいという気持ちがあることはわかっていました。なんとかその気力を引き上げる手立てはないものか試してみました。好きだった裁縫をやらせてみましたが細かい作業はもう無理でした。歌を歌ってみましたが長続きすることはありませんでした。

 

そんな中、清少納言枕草子の絵本を見せて一緒に声を出して読み合わせをしたら驚くほどとても元気になってきたのです。それは丁寧なかわいい絵に大きな字で言葉が書かれている絵本です。

 

最初のページは『春はあけぼの』という大きな字と、可愛らしい女官がだんだん明けゆく山の様子を想像している絵が描かれています。

 

次のページを開くと白んできた山の端と横たわる薄紫の雲が描かれています。

やうやう白くなりゆく

山のはすこしあかりて

むらさきだちたる雲の

細くたなびきたる

母も一緒に声を出して読みます。

 

「何遍読んでも飽きないねぇ」昔見た山の姿や白んだ空の様子を思い出しているようです。夏の蛍が飛び交うページでは、昔蛍狩りをしたことを話してくれました。秋の夜の風の音や虫のねもきっと聞こえていているでしょう。

 

そして先日秋の夕空高く連なって飛ぶ雁の様子をえがいたところで。じっと絵を見ていましたが、やがて雁が首を長くして飛んでいる様子を指さして「一所懸命とんでるねえ」とつぶやいて言いました。母はその時、雁の気持ちと自分の気持ちがひったりと重なったのです。しげしげと絵を見る母を見て、母の今の思いが伝わってるようでした。この消えかかった母の気持ちを残しておきたい、そう願わざるを得ない気持ちになりました。

 

まいて

雁などのつらねたるが

いとちいさくみゆるは

いとをかし

 

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雁などのつらねたるがいとちいさくみゆるはいとをかし

「春はあけぼの」ぽるぷ出版、斎藤孝編、たんじあきこ絵